ディアトロフ峠事件

ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日にソ連領ウラル山脈北部で男女のグループが不可解な死を遂げた謎の事件である。

事件の発生まで

男女グループ(リーダー:イーゴリ・ディアトロフ)の一行は、スキーでのトレッキング計画を立てて、目的地をオトルテン山に設定した。(男性8名、女性2名の計10名が登山計画に参加)男女のグループは長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この計画に表立って反対するものはいなかった。

 

一行は目的地(オトルテン山)付近の有人集落であるヴィジャイに到着。1月27日にヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した。しかし出発の翌日(28日)にメンバーの一人であるユーリー・ユーディンが持病のリウマチの悪化からグループを離脱することになり、ここでメンバーは9人となった。

 

メンバーの行動が分かっているのはここまでであり、ここから先の行動は最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである。

 

ユーリー・ユーディンが抜けた後、一行は未開の原生林を進みながらオトルテン山を目指し、31日にオトルテン山の麓に到着し本格的な登山準備に入った。2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入り、ある程度進むと一行はキャンプに適した場所を探し始めたが、山の悪天候によって方向を見失い、オトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。彼らはやがてその誤りに気づいたが、なぜか1.5キロメートルほど下方の比較的安全にキャンプできる森林地帯で風雪を凌ぐのではなく、何もない山の斜面にキャンプを設営している。

捜索開始

2月20日、一行から何の連絡もないことを心配したメンバーの親族が救助を要請し、ウラル科学技術学校はボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送った。

その後は軍と警察も加わり、捜索はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなった。

メンバー5人の遺体を発見!

2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で、酷く損傷したテントを発見した。中には誰もおらず、テントは半分に引き裂かれ、荷物は置き去りにされていた。テントは内側から切り裂かれており、足跡が、近くの森に向かって続いていたが、500メートル進んだところで、雪に覆われて見えなくなってしまった。まるでメンバーたちがテントから急いで逃げ出したかのように見えた。

 

切り裂かれたテント

内側から切り裂かれたテント

捜索隊は森のはずれの大きなヒマヤラスギの下で何故か下着姿で靴を履いていないメンバー2人の遺体を発見、木の枝が5メートルの高さまで折られていたことから、メンバーの誰かが木の上に登って、何かを探していたようであった。

 

捜索隊はさらに、ヒマヤラスギから300メートル、480メートル、630メートルと離れた別々の位置で、リーダー(イーゴリ・ディアトロフ)を含む別のメンバー3人の遺体を発見した。その3人の姿勢は彼らがなんとかテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していた。

 

ここまでで5人が亡くなっているが、検死の結果は5人とも低体温症による死亡と判明している。

4人の遺体を発見!

残り4人のメンバーの捜索は難航し、発見までに2ヶ月を要し、5月に遺体が発見されている。

残りの4人の遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75メートル先にある渓谷の中の4メートルの深さの雪の下から発見された。4人は初めに発見された他の遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を譲ったらしいことを示していた。

謎を呼ぶ死因・・・

4人のメンバーのうち1人の死因は低体温症であったが、残る3人の検死結果は異様なものであった。この3人の死因が低体温症ではなく致命傷によるものだったからである。1人は頭部に大きな怪我を負っており、残りの2人に関しては外傷を負っていなかったが、ろっ骨をひどく骨折しており、そのうち1人は舌まで失っていた。

 

ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士によると、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵すると話し 、3人の遺体が負った致命傷は人間の力によることは考えがたいとしている。

 

その他にもこの一行の死を不可解にさせているもので、何人かの犠牲者の衣服に、高い線量の放射能汚染が認められたことや、テント内に残されたメンバーのカメラのフィルムが現像され、ほとんどは彼らの姿を映したものが多数を占めていたが、写真の1枚に判別不可能ながら「光体」のようなものが写ってあったことなどが挙げられる。一行のメンバー達の葬儀に参加したユーリー・クンツェヴィチは、亡くなった彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想している。

 

当局の最終的な調査結果は、全員が “抗いがたい自然の力” によって死亡したというものであった。死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」との結論で終息している。

 

人食い一族 ソニービーン伝説

これは14世紀後半のスコットランドのイースト・ロジアンで起こったとされるソニービーン一族の起こした猟奇的事件の話である。

 事の発端・・・

ビーンの父は庭作りや廃棄物処理などの日雇いの労働に従事し、ビーンは若い頃、父の手伝いをしながら生計を立てていました。しかし粗暴で怠惰な性格のビーンは次第に父の仕事の手伝いが嫌になりある日家を飛び出してしまいました。

 

家を飛び出したビーンは、町で気の合う一人の女性(アグネス・ダグラス)と知り合います。意気投合した二人は互いを生涯の伴侶と決め、ギャロウェイ付近にある海岸の洞窟で暮らすことになります。

 

二人が暮らすことになった洞窟は、満潮時になると入り口が海面下に隠れるので人の目にはつきにくく、二人にとっては十分な住み家でありました。洞窟での生活は二人の性に合っていましたが、当然のごとく収入はなく、食うに困った二人は生活のために付近を通る通行人を襲って金品を奪うことを思い付きます。

二人は通行人や旅人を襲うようになり、犯行を行った際には必ず相手を殺して死体を洞窟に隠すようにしました。

 

二人は奪った金品で食料品を買うなどしてなんとか食いつないでいましたが食べていくには十分ではなく、飢えた二人は次第に殺した人間を食べ始めるようになっていきます。

ソニービーン

洞窟入り口に立つビーン。後ろの女性は人間の足を運んでいる。

大家族の形成・・・

洞窟でこのような生活を長く続けていくうちに、二人の間には沢山の子供が出来るようになります(その数14人)。

さらにその子供達は青年期になると洞窟内で近親相姦を繰り返すようになり、ビーンの孫は32人にも増え、ビーン家は総勢48人の大家族となっていきました。

 

ビーンの子や孫達はまともな教育を受けなかったので、野人同様でまともに言葉を喋ることも出来なかったそうです。

 

ビーン一族は組織的に(まるでオオカミが群れで狩をするように)犯行を行うようになっていきます。襲う時間は主に夜間で相手は必ず5人以下と決め、襲う時は相手の逃げ道まで予想した上で人員を配置するなど徹底したものでした。

 優れた殺人スキル

ビーン一族の殺人スキルはとても高く、優れたチームワークで通行人や旅人を一人たりとも取り逃すことなく犯行を行ったとされています。犯行後、死体は洞窟に戻されバラバラにされて食べられました。余った肉は樽に漬けられ、骨は野生動物が襲ったように見せかけ近くのビーチなどに捨てられたそうです。

そのためビーン一族に狙われて生還できるものはほとんどなく、ギャロウェイ付近の海岸では謎の失踪事件が多発しているとされ、住民の不安を払拭するために治安当局は犯人を見つけるために組織的に調査を開始し、ある者は洞窟にも注目しましたが、とても人がそこに住めるとは考えずに洞窟は早々と調査の対象からは外されました。

 

調査団は少しでも疑わしい人間がいればすぐにでも逮捕し、そのなかには無実の罪で処刑された人も多数いたようです。

 

ただ、その後も失踪者が相次いだことにより、地域住民の間では神隠しや悪魔の仕業のような謎の失踪事件と見なされていて人々を恐怖に陥れていました。

 犯行の発覚と逮捕

ビーン一族は25年にも渡り犯行を続けてきましたが、遂にそれにも終止符が打たれることになります。

 

ある日いつものように通行人(この時は一頭の馬に乗った夫婦)を襲ったのですが、夫は戦闘に熟練した者で、剣とピストルで巧みに抵抗を続けます。戦闘中に妻が落馬すると、ビーン一族は妻を捕らえて殺すことは出来たが、その時大人数の集団が現場近くまで接近してきたため、ビーン一族も姿を隠すしかなく、運良く夫は馬に乗って逃走することに成功しました。

逃げた夫が役所に駆け込むことによりビーン一族の犯行が露見します。

 

役所からの報告を受け、事態を重く見た国王は自ら400人近くの兵と猟犬を連れ、ビーン一族の逮捕に赴きます。

 

現場に到着した国王率いる捜索隊は付近を捜索するが、海岸付近のビーン一族の隠れ家(洞窟)をなかなか見つけることが出来ずにいました。

 

しばらく捜索を続けていると猟犬が何かの匂いに反応し洞窟の入り口を発見しました。洞窟付近では何かが腐ったような異様な匂いが立ち込めており、兵士達が意を決して一斉に中に入ってみると、そこには壁からぶら下がっているいくつかの身体の部分や、手足で満たされた樽、多数の人間の遺体に囲まれたビーン一族を見つけました。

これによりビーン一族は全員が逮捕されましたが、一族は逮捕の際には暴れたりもせずあっさりと捕まります。

 

ビーン一族は、その犯行の悪質さから裁判を受けることも出来ずに全員が惨い方法で処刑されました。

 事件の真偽・・・

このビーン一族の事件の話はロンドンのニューゲート監獄の犯罪カタログに掲載されているものが一般的に広まっており、歴史家からは、公文書や出版物などには出ていないことからほんとにあった話かどうか疑わしいとの声も出ているようです。

詳細はわからないのですがあくまでも伝説としてお伝えしておきます。