人間を襲う怪物チンパンジー

1988年、保護区の経理担当職員バーラ・アマラセカランと妻のシャルマイラは、シエラレオネ共和国の首都フリータウンの北部150キロに存在する小さな村の市場で幼い一匹の弱弱しい幼いチンパンジーが売られているのを発見し、20ドルで購入した。

その子ザルは本当に弱弱しく、もし夫妻が購入を決断しなかったならばじきに衰弱死したであろう。夫妻はそのチンパンジーをブルーノと名付けた。

このとき夫妻には、そのかわいいチンパンジーが将来人間を襲う凶悪なチンパンジーになるとは想像もしていなかった。

夫妻は生後数年間は自宅でブルーノを育てていたが、二匹目のチンパンジーのジュリーを引き取る際に自宅では手狭になり、庭に檻を設置して二匹を収容することにした。

保護地が設営されたとき、ブルーノは他のチンパンジーと比べて大きくなりすぎていたので一匹だけ別に檻にとどめ置かれた。

1998年、夫妻は電気フェンスで囲んだ囲いを設置し、その中にブルーノを入れることにした。 

チンパンジー

規格外の体

この時ブルーノは、体長は180cm、体重は90kg以上の巨体に成長していた。

これは平均的な雄のチンパンジーが体長85cm、体重40~60kgであることを考えるとその巨体は群れの中でもひときわ際立っていた。

平均的なゴリラの大きさが、オスで体長170cmくらいであることを考えると、ゴリラ並みの大きさのチンパンジーとも言えるでしょう。

ブルーノは巨大な体躯と体力、優れた運動能力と頭脳で、すでにチンパンジーのボスとして群れを完全に支配していた。

そして野生のチンパンジーなら恐れて決して近づかないであろう人間をも見下していた。彼は人間のもとで育ったがゆえに、人間が高い上背に比して鈍い反射能力、惰弱な顎の筋力など非常に脆弱な身体能力しか有さないことを学び取っていたのだ。

例えば、一般にチンパンジーの投擲能力(物を投げる能力)は限られたものであるが、ブルーノに限っては優れた投擲能力を有し、自分が気に入らない観客に対して正確に糞や様々な大きさの石を投げつけ当てることができた。

だが彼は闘争本能をむき出しにして人間を自分に対し警戒させるような愚かなまねはしなかった。彼は人間とのコミュニケーション能力に長け、身近な人間には表面上は友好的な態度を示し、舌を丸めたり捩じったり、投げキス、笑うといった人間が行う高度な身体表現を示すことが可能であった。

ブルーノはときに愛嬌を振りまき、人間たちに対して好意を持っていると信じ込ませることに成功した。そして彼は人間たちの愛情が自分に向けられるように振舞った。

失踪

チンパンジーの生育地は二重のフェンスで囲まれ、それに加え電気柵が設置されていた。生育地内への出入りには複数の鍵を開けるという複雑な工程を経なければならなかった。

管理側は類人猿には理解できない複雑な開錠操作と電気ショックによるオペラント条件付けにより完全にチンパンジーの集団を管理出来ていると信じていた。だがチンパンジーの知恵は人間の想像を超えたものであった。

チンパンジーたちは日頃人間たちがどのようにゲートの鍵を開錠するのか冷静に観察し、その方法を学習していたのである。

2006年、ブルーノはゲートの扉を開くことに成功し、部下を連れて保護地を脱出した。 このチンパンジーの集団脱走に対し、アマラセカラン夫妻を含め保護区の職員は当初楽観的見通しを持っていた。ブルーノ含むチンパンジーの群れは、野生のチンパンジーのグループに迎えられて彼らと同化していくと考えていたのである。

だが人間に育てられたチンパンジーが野生の集団に溶け込むことはできなかった。

襲撃事件発生

2006年4月、本保護区から約3キロ離れたレスター・ピーク・ジャンクションに新しい米国大使館が建設されていた。

4月23日の日曜日、建設現場で働くキャドル・コンストラクション・カンパニーから派遣され働いていたアラン・ロバートソン、ゲアリー・ブラウン、リッチー・ゴッディーら三人とシエラレオネ人のメルヴィン・マナーが、地元出身のアイサ・カヌーが運転するタクシーを借り切って本施設を見学に来ようとしていた。

途中、暗い藪の中の間道に差し掛かり、彼らがふと車中から外を眺めると、チンパンジーの群れが静かに自分たちをじっと見つめているのに気が付いた。

カヌーは野生のチンパンジーの恐ろしさを知っていたが、他の4人は自分たちが危険な状況に置かれていることを理解しておらず、好奇心からカメラを取り出してそれらを撮影しようとした。カヌーは、ただちに彼らを制止して、すぐに窓を閉めるように指示し、パニックになりながらも、とにかくその場を急いて離れようとした。だがカヌーは恐怖のあまり冷静さを失い、運転操作を誤り保護区のゲートに車体を突っ込んでしまい、鉄製の檻に引っかかり抜け出ることができなくなってしまったのである。

群れのボスのブルーノはこの機を逃さなかった。彼に長い間胸の奥に秘めていた人間への憎しみと恨みを晴らす機会が訪れたのである。彼はさっそく計画的に「人間狩り」を開始した。この後とったブルーノの戦略は実に巧妙なものであった。

まず一人の人間を襲い、人間たちをパニックに陥れ車外へ追い出し、そしてバラバラに分散させ、そのあと総計30匹の部下たちからなる複数の小グループに各個に襲わせるというものであった。

チンパンジーの残忍さ そしてこのとき見せたブルーノの残酷さと陰湿さは人間の想像をはるかに絶するものであった。彼はこぶしで車のフロントガラスを叩き割り、運転手のカヌーを車体から引きずり出し、首根っこをつかみ、頭部を地面に何回も叩きつけ失神させ、手と足の指の爪を剥がし、そのあと四肢のすべての指を噛み切って切断した。

こうして予め抵抗の能力を封じておいて、次に、あたかも果実を齧るように生きたまま彼の顔面を食いちぎり始め、時間をかけて、もてあそぶようにして死に至らしめたのだ。

目前で繰り広げられている想像を絶する光景を目にし、残りの四人の人間はただただ茫然自失するのみだった。彼らのうち危険を冒してカヌーを救い出そうとしたものは誰もいなかった。

そして正気に戻った彼らの脳裏に浮かんだのは、次に自分が攻撃の対象にならないことだけだった。彼らは自己保身と恐怖心から他人のことを構う余裕はなく、ただ自分だけが助かりたいばかりに蜘蛛の子を散らすようにバラバラの方向に逃げ出したのであった。

恐怖心で判断力を失った単独で逃げる人間たちを集団で背後から襲うことは、群れから逸れた年老いて弱ったヒヒを狩るより容易いことであった。人間たちはチンパンジーの狩猟本能の赴くまま個別に捕まりサディスティックに甚振られた。被害状況から判断すると、チンパンジーたちは常に自分たちを迫害してきた現地人(黒人)と、外来者の人間(白人)を区別し対処している。彼らの憎しみは主に黒人に向けられている。

シエラレオネ人のマナーは腕に重傷を負わされ、後に病院に搬送されたが切断手術が必要となった。これらの惨劇は朝の8時から同45分までのわずか45分間の間に起こったことである。

本来、肉体的パワーに勝るチンパンジーに人間が対抗するには協力して対処しなければならなかったが、愚かにも人間たちはブルーノの策にはまり個人単位で行動してしまった。道具の使用という人間の利点を生かすこともできなかったことも状況を決定的に不利にしている。車載工具などを効果的に利用し、身を守ることはできたはずである。これらの不利な条件が重なって人間は組織的な反撃の機会を逸し、チンパンジーの集団から個別に無防備のままいたぶられるという最悪の事態を招いた。

人間たちは身体能力ばかりか知力においても完全にチンパンジーの劣位に立っていた、と捉える意見もある。

捜索

事態の重大さに驚愕したシエラレオネ政府は直ちに事態の収拾と対策に乗り出した。いつもならばスローモーなアフリカの行政府が迅速に動いた理由のひとつに、被害者に主要な経済援助国の米国民が多数含まれたことも関係していると考えられる。

政府は直ちに警察隊を現場に派遣し、脱走したチンパンジーたちの捜索に取り掛かったが、彼らを見つけ出すことはできなかった。警察が地域住民に対し行ったことは、チンパンジーに遭遇したときは近づかない様に警告することのみであった。本気で自分たちを守ろうとしない警察に住民は苛立ち、怒りと恐怖のあまり暴動状態に陥った。警察は彼らを静めるために、拳銃を空に向けて威嚇射撃をせざるを得なかった。

業を煮やした政府は次に自動小銃で武装した兵士からなる増援部隊を送り込み、作業員に対する厳重な護衛のもと現場一帯をコンバインで刈り取る作業を行い、森林と居住地域との間に緩衝地帯を設けた。保護区当局はジャングルのいたるところに赤外線感知の自動カメラを設置してチンパンジーの動きを察知しようとしたがその効果は限定的であった。

脱走したチンパンジーのその後

保護区から逃亡することで一度は自由を満喫したチンパンジー達であったが、人間の手で育てられ、野生の中で生きる術を学んでこなかった彼らは野生の集団に迎え入れられることはなく、やがて窮し、9匹は自発的に保護区に戻ってこざるを得なかった。結果的に27匹は捕獲されたが、残りの4匹はいまだ捕らえられずにいる。そのなかにブルーノが含まれる。彼は幾たびか自動カメラに姿が捉えられることはあったが、現在に至るまで捕獲はされていない。