八仙飯店一家惨殺事件

この事件はマカオ半島の東北部にある八仙飯店で一家10人がバラバラに惨殺され遺棄されるという惨たらしい事件であり、あまりに有名なこの事件を題材にした映画やドラマも多数制作されている。

八仙飯店

当時の八仙飯店

登場人物

黄(50代)

事件の犯人。元の名を陳梓梁といい、広東省の現佛山市南海区書楼村の出身。「黄」姓の女性と結婚し名を変え2男1女を儲ける。

鄭林(50代) 

八仙飯店経営者で、黄とは麻雀、ポーカー等の賭博仲間であるが、この賭け事が原因となり黄から恨みを買うことになる。妻である岑恵儀との間に1男4女を儲けている。

岑恵儀(42歳) 

鄭林の妻

観徳(7歳)   

鄭林夫妻の息子

鄭林夫妻の娘4人

陳麗容(70歳) 

岑恵儀の母親

陳珍(60歳)  

陳麗容の妹

料理人(61歳) 

八仙飯店の料理人で鄭林の従兄 名は鄭柏良

ビーチで発見された謎の手足

1985年8月8日に、コロアネ島のハクサビーチで8体の人間の手足が浮いているのを海水浴客が発見し警察に通報した。警察が調べたところ、発見されたのは右足首が4体、左足首が2体、両手が2対であることが分かった。右足首が4体あることから犠牲者は少なくとも4名いると思われた。

 2日後、同じビーチで野犬が女性の左手首1体をかじっているのが発見され、3日後には警察が女性の右手首1体を、海水浴客が右足首1体を再び発見した。

11体の手足の発見を受け、警察はすぐに捜査班を設置し、中国大陸から法医学者を招いて手足の化学検査、記録作成に協力してもらったものの、捜査は進展しなかった。

捜索願いの手紙

手足発見から8カ月後の1986年4月、マカオの司法警察局と広州の国際刑事警察機構は、八仙飯店の経営者である鄭林の弟から捜索願いの手紙を受け取った。

手紙には、兄一家(10名)が突然失踪したことと八仙飯店を不動産ごと黄という名の男が受け継いだことが書かれてあり、兄一家の行方を捜索して欲しいという内容のものであった。警察に手紙を出した経緯は、マカオのハクサビーチ付近の海面で人の手足の残骸が発見された事を知り、もしかしたら兄一家が誰かに殺されてしまったのではないかと心配してのものであった。

手紙の内容にはまだ裏付けはなかったが、これが警察が黄に対する捜査を始めるきっかけとなった。 

本格的な捜査開始

前年に発見された手足の残骸を警察が新たに調べたところ、ついに1体の女性の手首の指紋が陳珍(岑恵儀の母親の妹)のものと似ていることをつきとめた。これを受けて警察は黄を監視するとともに、失踪者の近隣者約20名に対し聞き込みを行った所、警察は鄭林一家の失踪は1985年8月4日から5日の間で起きており、犯行は黄と別の若い男1名が共謀して一家を殺害したと確信するに到った。

また警察は黄が八仙飯店の失踪事件とは別の凶悪事件にも関係していることをつきとめていた。

1973年11月5日、香港の鰂魚涌の英皇道にやってきた黄は、李和という男性から1万香港ドルを借りた後、李和夫妻と妻の姉を後ろ手に縛った上で斬りつけ、李和を浴槽で溺死させた。その上、液化石油ガスで放火を図ったが、幸いにも李和の姉と妻子は脱出した。この事件当時、黄は陳梓樑と名乗っており、逃亡先の広東省南海区で潜伏中、潜伏先の女性と恋愛関係になり結婚、夫婦でマカオに密航、この時警察の追及から逃れるため、黄は左手人差し指の指紋を焼いて除去している。1986年、八仙飯店の事件発覚後、李和の家族は黄と陳梓樑が同一人物であると認めている。

逮捕・取り調べ

1986年9月28日、黄が中国大陸へ逃亡しようとしていることを察知した警察は、黄を署に連行し、集中的に取り調べを行った。警察は、黄が鄭林一家の失踪後に八仙飯店を引き継ぎ従業員も入れ替え営業を開始していること以外にも、鄭林の個人所有の不動産を他人に貸し出していることや、自分の20代の息子が当時使用していた自動車が鄭林の所有のものであることをつきとめていた。

黄が逮捕されたことにより、巷では黄が八仙飯店で犠牲者の遺体を叉焼包にして店で販売していたのではないかと噂されるようになり、香港とマカオで一時大々的に騒がれるようになった。

自白・犯行の動機

1986年10月6日、拘留中の黄は事件の動機と経緯について自白した。それによると、鄭林が賭けにより黄に負った借金を払わなかったことが殺害の動機であったとした。黄と鄭林夫妻は長年の顔見知りであり、よく麻雀、ポーカー等の賭博を一緒に行っていたという。

事件発生の前年である1984年の晩、八仙飯店で黄、鄭林夫妻、料理人がポーカーで賭けを行った。鄭林の妻の母親である陳麗容もその場におり観戦していた。

黄は鄭林と2,000マカオ・パタカの勝負を行い、黄が18万マカオ・パタカ勝ったという。その際、鄭林は1年以内に清算すると答え、さらに、もし支払いが出来ない場合は八仙飯店を黄が差し押さえることにも口頭で同意した。

それから事件発生までの間、黄は何度も鄭林夫妻に清算を求めたが拒絶され、ビタ一文受け取れなかったという。

事件発生の晩の1985年8月4日、黄は再び閉店後の八仙飯店に行き、鄭林夫妻に賭けの精算を求めたが拒絶され、鄭林に対してまず2〜3万マカオ・パタカを支払えば、残りの返済はゆっくりでよいとも提案したが、鄭林が「何を返せというんだ? 借用証もないではないか。」と答えたことから言い争いになった。

逆上した黄は、テーブル上のビール瓶の底部をたたき割って手に構え、傍らにいた鄭林の息子の観徳をはがいじめにして割れたビール瓶をその頸部に突きつけるとともに、その場にいる者に声を出さないよう命じた。その場には鄭林夫妻一家と料理人がいたが、観徳が人質になったため誰もうかつに動けなかった。黄は全員にロープで互いを縛るように命じるとともに、布で各人の口を覆っていった。

ロープを掛けていないのは鄭林の妻、岑恵儀と息子の観徳だったが、黄が岑恵儀に幼い息子をロープで縛るよう命じた途端、彼女が突然、大声で泣きながら息子を抱き上げて逃げようとしたため、割れたビール瓶を彼女の頭部に振り下ろして殺害した。

それから黄は理性を失い、そのビール瓶で各人を次々と殺害していったという。店内にいた9名の内、最後に犠牲となったのが7歳の観徳であったが、彼は殺害される前に黄に向かって「大叔母さん(鄭林の妻の母親の妹、陳珍)が通報するから警察がお前を捕まえるぞ!」と言ったという。

それを聞いた黄はその後、陳珍の元に向い、子供が熱を出したという嘘で彼女を八仙飯店まで誘い出して殺害した。

黄は、8時間かけて全員の遺体を解体した後、黒い二重のポリ袋に入れ、一袋ずつゴミ箱に遺棄したことを認めた。

黄は、鄭林一家を殺害後は従業員を入れ替え八仙飯店を引き継ぎ営業を開始していた。

自殺

1986年10月4日、刑務所に入れられた黄は、刑務所内の鉄製ゴミ箱を割いた物で左手首の脈を切り自殺を図ったが、他の拘留者に見つかり、5時間に渡る救命措置を受けることで命を取りとめた。だが12月4日の深夜、黄は研磨した炭酸飲料缶の蓋で、以前に自殺を図った際の傷口を再び切り自殺した。

発見された大量の人骨

1989年2月20日午後5時、 タイパ島の清掃員がごみ捨て場で大量の人骨を発見し、マカオの司法警察局は数日間調査した結果、これらの人骨が八仙飯店で行方不明になっている10名の遺体であるとみなしている。