峡谷からの脱出

アーチーズ

2003年4月26日、アーロン・リー・ラルストンは探検目的のため、キャニオンランズ国立公園に数ある峡谷のひとつ、ブルージョン・キャニオンを目指していた。ラルストンはこの時27歳。

登山経験も豊富にあったラルストンは、簡単なルートだと思い家族や知人に詳しい行き先のルートなどを伝えていなかった。

車でホースシュー・キャニオンに着くと、簡単なクライミングのための荷造りをし、マウンテンバイクで出発。ブルージョン・キャニオンの入り口に着くと、バイクを木につないで徒歩で探検を開始した。 

峡谷は起伏が激しく、軽いクライミングも必要な複雑な道であったが、無事何事もなく峡谷を抜けられる地点まで近づいていた。

そのまま順調に進んでいたが、峡谷の裂け目を抜ける際に思いあまって手を滑らせ下へ転がってしまう。頭を打つこともなくなんとか無事に着地できたと思ったラルストンであったが、落ちた時に、峡谷の裂け目に挟まっていた岩石も同時に落下してしまい、右腕がその岩石と壁のあいだに挟まって、押し潰されてしまった。

岩

ラルストンの腕はこのように岩に挟まってしまった

腕が挟まったせいで身動きが取れなくなったラルストンは途方に暮れ、救助の事も考えたが、この旅の計画を誰にも伝えていなかったことを思い出し、誰も自分のことを探しに来ないだろうと考えていた。

150mlしか残っていない水を少しずつ飲みながら、何とか腕を引き抜こうと試みたが、約360キロ程度もあると思われる岩が腕をガッチリと挟んでおり、抜こうにも腕を引き抜くことができない。

ラルストンはこの時自分自身の死を悟った。

「岩から挟まった腕を抜かなければここで死んでしまう」と思ったラルストンは、諦めずに岩を持ち上げようとしたり壊そうとしたりするがビクともしない。

そうこうしている内にすでに3日経ち、ラルストンは脱水症状を起こして精神錯乱状態となっていく。岩が動かせず、壊せもしないのなら、この挟まった右腕前腕部分を切断するしか方法がないと考えるようになった。

彼は、腕が挟まった最初の数日で実験的に右腕を止血し、表皮に傷を入れて出血しないかどうか確かめていた。

4日目の時点で切った腕を引き離すには腕の骨を折らなければいけないことに気がついたが、彼が持っていた小さなナイフでは骨を切断することが出来ない。

5日目には飲み水が尽きてしまい、渓谷の壁に自分の誕生日と死ぬであろう日付を刻みつけ、自分自身をビデオ撮影して家族に向けて最後のメッセージを録画した。

恐らくその夜は生き延びられないだろう思っていたが、翌朝(2003年5月1日木曜日)の夜明けにまだ生きているということに気がついた。

その後すぐに「挟まった腕をねじって力を加えることで、前腕部の二本の骨を折ることができるのではないか」と直感し、直ちに実行に移し骨を折ることは出来たが、彼の持っていたナイフが短かったために完全に腕を切り離すには1時間程かかった。

 

彼は後にナイフのメーカーについて「レザーマン製以外のものを使った」とだけ言って、どのメーカーのものであるか言及していないが、「15ドルの懐中電灯を買った時に、万能ツールとしておまけでもらったものだ」と言っている。

 

腕の切断に成功した後、彼は車を置いた場所まで戻らなくてはいけなかった。長く留まっていた狭い渓谷を脱出し、真昼の太陽の降り注ぐ中、渓谷を歩きとおした。

自分の車を駐車したところまでは8km程離れていたが、歩いているうちにオランダから休暇に来ていた家族に運良く遭遇した。

彼らはラルストンに水を与え、救助を要請するために急いで移動した。ラルストン自身は救急要請される前に出血多量で死ぬのではないかと思っていたが、偶然にもラルストンを探していたレスキュー隊がヘリコプターで着陸し救助された。腕を切断してから6時間後のことであった(家族や友達が、ラルストンがいなくなったことで救助要請をし、救助の直前にキャニオンランズに捜索対象を絞ったところだった)

後日、切断されて残った腕は、国立公園の管理者によって岩の下から取り出された。

トム・ブロコウによると、13人がかりで巻き上げ機と油圧ジャッキを使って岩を動かし、ようやくラルストンの腕を取りだすことができたという。

腕は火葬にされた上でラルストンに渡された。6カ月後、NBCテレビでの事故の特集番組を撮影するため、彼の28回目の誕生日にトム・ブロコウと共に事故現場に戻った。

その際「自分の右腕はこの事故現場のものだから」といって、右腕の遺灰を現場に散骨している。