峡谷からの脱出

アーチーズ

2003年4月26日、アーロン・リー・ラルストンは探検目的のため、キャニオンランズ国立公園に数ある峡谷のひとつ、ブルージョン・キャニオンを目指していた。ラルストンはこの時27歳。

登山経験も豊富にあったラルストンは、簡単なルートだと思い家族や知人に詳しい行き先のルートなどを伝えていなかった。

車でホースシュー・キャニオンに着くと、簡単なクライミングのための荷造りをし、マウンテンバイクで出発。ブルージョン・キャニオンの入り口に着くと、バイクを木につないで徒歩で探検を開始した。 

峡谷は起伏が激しく、軽いクライミングも必要な複雑な道であったが、無事何事もなく峡谷を抜けられる地点まで近づいていた。

そのまま順調に進んでいたが、峡谷の裂け目を抜ける際に思いあまって手を滑らせ下へ転がってしまう。頭を打つこともなくなんとか無事に着地できたと思ったラルストンであったが、落ちた時に、峡谷の裂け目に挟まっていた岩石も同時に落下してしまい、右腕がその岩石と壁のあいだに挟まって、押し潰されてしまった。

岩

ラルストンの腕はこのように岩に挟まってしまった

腕が挟まったせいで身動きが取れなくなったラルストンは途方に暮れ、救助の事も考えたが、この旅の計画を誰にも伝えていなかったことを思い出し、誰も自分のことを探しに来ないだろうと考えていた。

150mlしか残っていない水を少しずつ飲みながら、何とか腕を引き抜こうと試みたが、約360キロ程度もあると思われる岩が腕をガッチリと挟んでおり、抜こうにも腕を引き抜くことができない。

ラルストンはこの時自分自身の死を悟った。

「岩から挟まった腕を抜かなければここで死んでしまう」と思ったラルストンは、諦めずに岩を持ち上げようとしたり壊そうとしたりするがビクともしない。

そうこうしている内にすでに3日経ち、ラルストンは脱水症状を起こして精神錯乱状態となっていく。岩が動かせず、壊せもしないのなら、この挟まった右腕前腕部分を切断するしか方法がないと考えるようになった。

彼は、腕が挟まった最初の数日で実験的に右腕を止血し、表皮に傷を入れて出血しないかどうか確かめていた。

4日目の時点で切った腕を引き離すには腕の骨を折らなければいけないことに気がついたが、彼が持っていた小さなナイフでは骨を切断することが出来ない。

5日目には飲み水が尽きてしまい、渓谷の壁に自分の誕生日と死ぬであろう日付を刻みつけ、自分自身をビデオ撮影して家族に向けて最後のメッセージを録画した。

恐らくその夜は生き延びられないだろう思っていたが、翌朝(2003年5月1日木曜日)の夜明けにまだ生きているということに気がついた。

その後すぐに「挟まった腕をねじって力を加えることで、前腕部の二本の骨を折ることができるのではないか」と直感し、直ちに実行に移し骨を折ることは出来たが、彼の持っていたナイフが短かったために完全に腕を切り離すには1時間程かかった。

 

彼は後にナイフのメーカーについて「レザーマン製以外のものを使った」とだけ言って、どのメーカーのものであるか言及していないが、「15ドルの懐中電灯を買った時に、万能ツールとしておまけでもらったものだ」と言っている。

 

腕の切断に成功した後、彼は車を置いた場所まで戻らなくてはいけなかった。長く留まっていた狭い渓谷を脱出し、真昼の太陽の降り注ぐ中、渓谷を歩きとおした。

自分の車を駐車したところまでは8km程離れていたが、歩いているうちにオランダから休暇に来ていた家族に運良く遭遇した。

彼らはラルストンに水を与え、救助を要請するために急いで移動した。ラルストン自身は救急要請される前に出血多量で死ぬのではないかと思っていたが、偶然にもラルストンを探していたレスキュー隊がヘリコプターで着陸し救助された。腕を切断してから6時間後のことであった(家族や友達が、ラルストンがいなくなったことで救助要請をし、救助の直前にキャニオンランズに捜索対象を絞ったところだった)

後日、切断されて残った腕は、国立公園の管理者によって岩の下から取り出された。

トム・ブロコウによると、13人がかりで巻き上げ機と油圧ジャッキを使って岩を動かし、ようやくラルストンの腕を取りだすことができたという。

腕は火葬にされた上でラルストンに渡された。6カ月後、NBCテレビでの事故の特集番組を撮影するため、彼の28回目の誕生日にトム・ブロコウと共に事故現場に戻った。

その際「自分の右腕はこの事故現場のものだから」といって、右腕の遺灰を現場に散骨している。

人間を襲う怪物チンパンジー

1988年、保護区の経理担当職員バーラ・アマラセカランと妻のシャルマイラは、シエラレオネ共和国の首都フリータウンの北部150キロに存在する小さな村の市場で幼い一匹の弱弱しい幼いチンパンジーが売られているのを発見し、20ドルで購入した。

その子ザルは本当に弱弱しく、もし夫妻が購入を決断しなかったならばじきに衰弱死したであろう。夫妻はそのチンパンジーをブルーノと名付けた。

このとき夫妻には、そのかわいいチンパンジーが将来人間を襲う凶悪なチンパンジーになるとは想像もしていなかった。

夫妻は生後数年間は自宅でブルーノを育てていたが、二匹目のチンパンジーのジュリーを引き取る際に自宅では手狭になり、庭に檻を設置して二匹を収容することにした。

保護地が設営されたとき、ブルーノは他のチンパンジーと比べて大きくなりすぎていたので一匹だけ別に檻にとどめ置かれた。

1998年、夫妻は電気フェンスで囲んだ囲いを設置し、その中にブルーノを入れることにした。 

チンパンジー

規格外の体

この時ブルーノは、体長は180cm、体重は90kg以上の巨体に成長していた。

これは平均的な雄のチンパンジーが体長85cm、体重40~60kgであることを考えるとその巨体は群れの中でもひときわ際立っていた。

平均的なゴリラの大きさが、オスで体長170cmくらいであることを考えると、ゴリラ並みの大きさのチンパンジーとも言えるでしょう。

ブルーノは巨大な体躯と体力、優れた運動能力と頭脳で、すでにチンパンジーのボスとして群れを完全に支配していた。

そして野生のチンパンジーなら恐れて決して近づかないであろう人間をも見下していた。彼は人間のもとで育ったがゆえに、人間が高い上背に比して鈍い反射能力、惰弱な顎の筋力など非常に脆弱な身体能力しか有さないことを学び取っていたのだ。

例えば、一般にチンパンジーの投擲能力(物を投げる能力)は限られたものであるが、ブルーノに限っては優れた投擲能力を有し、自分が気に入らない観客に対して正確に糞や様々な大きさの石を投げつけ当てることができた。

だが彼は闘争本能をむき出しにして人間を自分に対し警戒させるような愚かなまねはしなかった。彼は人間とのコミュニケーション能力に長け、身近な人間には表面上は友好的な態度を示し、舌を丸めたり捩じったり、投げキス、笑うといった人間が行う高度な身体表現を示すことが可能であった。

ブルーノはときに愛嬌を振りまき、人間たちに対して好意を持っていると信じ込ませることに成功した。そして彼は人間たちの愛情が自分に向けられるように振舞った。

失踪

チンパンジーの生育地は二重のフェンスで囲まれ、それに加え電気柵が設置されていた。生育地内への出入りには複数の鍵を開けるという複雑な工程を経なければならなかった。

管理側は類人猿には理解できない複雑な開錠操作と電気ショックによるオペラント条件付けにより完全にチンパンジーの集団を管理出来ていると信じていた。だがチンパンジーの知恵は人間の想像を超えたものであった。

チンパンジーたちは日頃人間たちがどのようにゲートの鍵を開錠するのか冷静に観察し、その方法を学習していたのである。

2006年、ブルーノはゲートの扉を開くことに成功し、部下を連れて保護地を脱出した。 このチンパンジーの集団脱走に対し、アマラセカラン夫妻を含め保護区の職員は当初楽観的見通しを持っていた。ブルーノ含むチンパンジーの群れは、野生のチンパンジーのグループに迎えられて彼らと同化していくと考えていたのである。

だが人間に育てられたチンパンジーが野生の集団に溶け込むことはできなかった。

襲撃事件発生

2006年4月、本保護区から約3キロ離れたレスター・ピーク・ジャンクションに新しい米国大使館が建設されていた。

4月23日の日曜日、建設現場で働くキャドル・コンストラクション・カンパニーから派遣され働いていたアラン・ロバートソン、ゲアリー・ブラウン、リッチー・ゴッディーら三人とシエラレオネ人のメルヴィン・マナーが、地元出身のアイサ・カヌーが運転するタクシーを借り切って本施設を見学に来ようとしていた。

途中、暗い藪の中の間道に差し掛かり、彼らがふと車中から外を眺めると、チンパンジーの群れが静かに自分たちをじっと見つめているのに気が付いた。

カヌーは野生のチンパンジーの恐ろしさを知っていたが、他の4人は自分たちが危険な状況に置かれていることを理解しておらず、好奇心からカメラを取り出してそれらを撮影しようとした。カヌーは、ただちに彼らを制止して、すぐに窓を閉めるように指示し、パニックになりながらも、とにかくその場を急いて離れようとした。だがカヌーは恐怖のあまり冷静さを失い、運転操作を誤り保護区のゲートに車体を突っ込んでしまい、鉄製の檻に引っかかり抜け出ることができなくなってしまったのである。

群れのボスのブルーノはこの機を逃さなかった。彼に長い間胸の奥に秘めていた人間への憎しみと恨みを晴らす機会が訪れたのである。彼はさっそく計画的に「人間狩り」を開始した。この後とったブルーノの戦略は実に巧妙なものであった。

まず一人の人間を襲い、人間たちをパニックに陥れ車外へ追い出し、そしてバラバラに分散させ、そのあと総計30匹の部下たちからなる複数の小グループに各個に襲わせるというものであった。

チンパンジーの残忍さ そしてこのとき見せたブルーノの残酷さと陰湿さは人間の想像をはるかに絶するものであった。彼はこぶしで車のフロントガラスを叩き割り、運転手のカヌーを車体から引きずり出し、首根っこをつかみ、頭部を地面に何回も叩きつけ失神させ、手と足の指の爪を剥がし、そのあと四肢のすべての指を噛み切って切断した。

こうして予め抵抗の能力を封じておいて、次に、あたかも果実を齧るように生きたまま彼の顔面を食いちぎり始め、時間をかけて、もてあそぶようにして死に至らしめたのだ。

目前で繰り広げられている想像を絶する光景を目にし、残りの四人の人間はただただ茫然自失するのみだった。彼らのうち危険を冒してカヌーを救い出そうとしたものは誰もいなかった。

そして正気に戻った彼らの脳裏に浮かんだのは、次に自分が攻撃の対象にならないことだけだった。彼らは自己保身と恐怖心から他人のことを構う余裕はなく、ただ自分だけが助かりたいばかりに蜘蛛の子を散らすようにバラバラの方向に逃げ出したのであった。

恐怖心で判断力を失った単独で逃げる人間たちを集団で背後から襲うことは、群れから逸れた年老いて弱ったヒヒを狩るより容易いことであった。人間たちはチンパンジーの狩猟本能の赴くまま個別に捕まりサディスティックに甚振られた。被害状況から判断すると、チンパンジーたちは常に自分たちを迫害してきた現地人(黒人)と、外来者の人間(白人)を区別し対処している。彼らの憎しみは主に黒人に向けられている。

シエラレオネ人のマナーは腕に重傷を負わされ、後に病院に搬送されたが切断手術が必要となった。これらの惨劇は朝の8時から同45分までのわずか45分間の間に起こったことである。

本来、肉体的パワーに勝るチンパンジーに人間が対抗するには協力して対処しなければならなかったが、愚かにも人間たちはブルーノの策にはまり個人単位で行動してしまった。道具の使用という人間の利点を生かすこともできなかったことも状況を決定的に不利にしている。車載工具などを効果的に利用し、身を守ることはできたはずである。これらの不利な条件が重なって人間は組織的な反撃の機会を逸し、チンパンジーの集団から個別に無防備のままいたぶられるという最悪の事態を招いた。

人間たちは身体能力ばかりか知力においても完全にチンパンジーの劣位に立っていた、と捉える意見もある。

捜索

事態の重大さに驚愕したシエラレオネ政府は直ちに事態の収拾と対策に乗り出した。いつもならばスローモーなアフリカの行政府が迅速に動いた理由のひとつに、被害者に主要な経済援助国の米国民が多数含まれたことも関係していると考えられる。

政府は直ちに警察隊を現場に派遣し、脱走したチンパンジーたちの捜索に取り掛かったが、彼らを見つけ出すことはできなかった。警察が地域住民に対し行ったことは、チンパンジーに遭遇したときは近づかない様に警告することのみであった。本気で自分たちを守ろうとしない警察に住民は苛立ち、怒りと恐怖のあまり暴動状態に陥った。警察は彼らを静めるために、拳銃を空に向けて威嚇射撃をせざるを得なかった。

業を煮やした政府は次に自動小銃で武装した兵士からなる増援部隊を送り込み、作業員に対する厳重な護衛のもと現場一帯をコンバインで刈り取る作業を行い、森林と居住地域との間に緩衝地帯を設けた。保護区当局はジャングルのいたるところに赤外線感知の自動カメラを設置してチンパンジーの動きを察知しようとしたがその効果は限定的であった。

脱走したチンパンジーのその後

保護区から逃亡することで一度は自由を満喫したチンパンジー達であったが、人間の手で育てられ、野生の中で生きる術を学んでこなかった彼らは野生の集団に迎え入れられることはなく、やがて窮し、9匹は自発的に保護区に戻ってこざるを得なかった。結果的に27匹は捕獲されたが、残りの4匹はいまだ捕らえられずにいる。そのなかにブルーノが含まれる。彼は幾たびか自動カメラに姿が捉えられることはあったが、現在に至るまで捕獲はされていない。

 

海で76日間も漂流した男

スティーヴン・キャラハンは、少年の頃から大のヨット好きで、大人になるとヨット設計を仕事とするほどだった。 小型ヨットでの大西洋横断を目標においたキャラハンは、自分用に設計した小型艇ナポレオン・ソロ号を建造する。

1981年の冬、彼は念願の大西洋横断の航海に出発し、ポルトガルのリスボン、カナリヤ諸島で年を越したキャラハンは、カリブ海の島々を目指して単独航海を開始する。 

船の沈没、漂流へ・・・

1982年2月4日、嵐が吹き荒れる中、突然の衝撃とともにヨット内が浸水する。キャラハンの船は何らかの原因で穴が開いてしまい浸水が始まったのだ。船はほぼ沈み、かろうじて浮いているだけの状態になり、乗り続けることが出来なかったキャラハンは幅約2メートルの6人乗りの救命いかだに避難した。

救命いかだに移った後は、海に潜って、クッションや寝袋の一部や緊急キットを引き上げた。緊急キットには、食料や海図、槍銃、着火装置、懐中電灯、飲み水確保のための太陽熱蒸留装置、自身も海で漂流した経験のあるドゥーガル・ロバートソンによる海上サバイバルガイド本が入っていた。

夜明け前には、酷く荒れた海がナポレオン・ソロ号と救命いかだを引き離し、キャラハンは漂流した。

夜の海

漂流後、ナポレオン・ソロ号から拾い上げたわずかな食糧はすぐに食べつくしてしまったために、飢えと渇きに苦しんだ彼は、槍で魚を取ることを試みる。

漂流11日目にして魚(カワハギ)を水中銃で突き刺し、ようやく最初の獲物を手に入れることができた。 そのうちボートの周りに大型魚(シイラ)が集まってきたので、それも手に入れて食すことができた。

その他にもトビウオや蔓脚類、ボートに止まった鳥を捕まえて食べていた。

漂流の間、ボートの船底にはまるでコバンザメのようにシイラとカワハギが寄り添うようについてくるようになっていた。

水は2つの太陽熱蒸留装置や即席の雨水収集装置を使って飲み水を集めた。

これら全てを使って、毎日平均約500ミリリットルもの水を生成することに成功した。

彼は初めから救助を期待せずに自分自身を頼って、生き残るための船上生活を維持しなければならないと悟っていた。彼は日常的に運動や操船をし、問題の優先順位を付け、修理し、魚を釣り、装置を改善し、 そして、食料や水を緊急事態に備えて確保した。

発見、救助へ

1982年4月19日夜、彼はグアドループの南東側であるマリー・ガラント島に発光した。キャラハンの漂流が始まってから76日目の同年同月21日に、漁師がいかだの上を飛ぶ鳥に気付いてキャラハンを沖合で拾い上げたが、鳥たちはいかだの周りにできた生態系に惹きつけられたやってきたようであった。

サバイバルという試練のなか、彼はサメの襲来やいかだのパンク、装備品の劣化、神経衰弱、そしてストレスに苦しめられ体重の3分の1を失っていた。

彼は島に運ばれ療養のため数週間を過ごした。

大抵、海難事故に遭った場合、漂流者の90%は3日間で死んでしまうらしいが、彼は自身に起こった出来事を悲観的にではなく前向きにとらえ、その知恵で76日間もの間生き続けた。この経験は彼の著書「76日間の漂流」に詳しく書き記されている。

キャラハン

ノースヤーマスアカデミーの生徒に漂流した経験を説明するキャラハン

 

シベリアのヒグマ襲撃事件

2011年8月13日、シベリアのカムチャッカ半島の森林で、ヒグマが男女を襲い2名が死亡するという痛ましい事件が起きた。

熊に襲われた二人

左から継父イゴール・チガネンコフさんとオルガ・モスカヨワさん19歳

この事件、実は想像を絶する前代未聞の悲惨な出来事だった。

2名を襲ったのは母ヒグマと3頭の小熊だった。

先にイゴールさんが襲われ、首の骨を折られ、頭を割られて死亡し熊に食われていた。それを草むら越しに見たオルガさんは60mほど逃げたが熊に捕まり、襲われたオルガさんは、自分が熊に食べられている最中の、絶望的な状況の中で母親に携帯電話を掛け助けを求めたのだ。

電話を受けた母親が冗談だと思ったその内容は「ママ、熊が私を食べている。ひどく痛い!、、ショックで死にそうだ!」というものだった。

同時に聞こえてくる獣の息遣いなどから、やっと現実を理解した母親は、オルガさんの近くにいるはずの夫のイゴールさんが、すでに死んでいるとは想像も出来ず電話をするが応答は無い。あわてて警察に電話をした時、マルガさんから2度面目の電話が入った。弱弱しい声で「ママ、熊が後ろにいる。戻って3頭の小熊を連れて来て私を食べている」 その電話も途切れ、最後になった電話は、最初の電話から1時間後で、熊はすでに立ち去っていた。目前の死を悟ったのだろう「ママ、もう噛まれていない。痛みも感じない今までのことごめんなさい。すごく愛している」これが彼女の最後の言葉だった。

それから半時間後、警官と父親の兄弟ら数人が現場に付いたが、目にしたのは、まだイゴールさんを食べている熊の姿と、無残な姿で死んでいるオルガさんだった。その後駆けつけたハンター6人によって、母熊と3頭の小熊は射殺された。

恐怖の巨大人食いワニ

ギュスターブ
ギュスターブとは、ブルンジのタンガニーカ湖(タンザニア西端にある淡水湖)に生息する、モンスター級の巨大なナイルワニのことである。1990年代から現地に住み研究を続けるフランス人男性パトリス・フェイにより「Gustave」と命名される。

現地ではもはや神格化されるほどの悪名高い人食いワニで、他のワニが小さく見えるほどの巨体を誇り、住民の家畜の大型の牛や馬なども単体で水中に引きずり込み捕食する。また成獣の雌カバを捕食した例もあると言われている。

捕獲や射殺により正式に計測されればナイルワニの最大級個体として記録に残る可能性が高い(正確な計測は為されていないが全長は600cm以上になると思われる)

体重は1トンを超えるであろうと言われている。

性別は雄で完全な成体で、年齢は研究が進む以前は100歳以上とされていたが、歯の抜けが少ない為、2010年に推定68歳と発表された。

水中では時速12~14kmで移動するとされる。

現地人や関係者によると、このギュスターブによる犠牲者数は300人を超えると言われている。このギュスターブは人間に危害を加えるワニのため、過去に何度か射殺を試みられたが、ライフル銃やマシンガンの弾すら跳ね返すほど硬い頑強なウロコに守られているため、致命傷を与えるには至らずそのすべてが失敗に終わっている。このためギュスターブの体には機関銃や拳銃による弾痕がいくつか確認されている。

地元民からは、このワニが人間を襲うのは快楽のためではないかとも言われている。実際、襲われて死亡した者の中には、襲われたのに食されなかった被害者もいるからだ。

2008年を最後に長らくギュスターブの目撃証言は途絶えていたが、2015年6月に地元住人が水牛を捕食する姿を目撃し、その生存が確認されている。

 

 この怪物ワニは「カニングキラー・殺戮の沼」というホラーパニック・アクション映画の題材にもなっている。

 

 

飛行機墜落 ジャングルで生存した少女

父の待つプカルパの町へ

1971年12月24日クリスマスイブの日、17歳の少女ユリアナは、離れて暮す生物学者の父を訪ねるために、鳥類学者の母マリアとともに大型のプロペラ機でペルーの空港を飛び立った。座席は満席で、目的地はアマゾン川流域にあるプカルパという町である。

最初は順調なフライトだった。だが飛行機が雲に突入すると、乱気流にまき込まれて激しく揺れ出した。

棚からは荷物が落ちだし、機体は今すぐにでも割れてしまうかのように激しく上下に揺れだした。

母は手で顔を覆い恐怖でうずくまっている。

激しい揺れの中、突然閃光が走る。

落雷が燃料タンクを直撃したのか窓の外から見える翼からは炎が吹き出している。

その直後、翼は爆発し真っ二つに折れ、飛行機は空中でバラバラに引き裂かれてしまった。

ユリアナは座席ごと宙に放り出され、ジャングルの中へグルグルと回転しながら落ちていく・・・ユリアナは落下中気を失ってしう。

ジャングルでの過酷なサバイバル・・・

目が覚めるとユリアナは、ジャングルに横たわっていた…

最初自分に何が起きたのか理解できなかったが、飛行機が墜落したことを思いだし自分が運よく生き残ったことを理解した。周囲を見渡すと、あちこちに飛行機の残骸や死体が目についた。母の名を叫ぶが何も応答はない・・・

 

ユリアナは体に巻き付いていたベルトを外すとよろめくように歩きだす。

ユリアナはしばらく歩きながら、ふと「ジャングルで迷ったら、まずは川を見つけ、下流に下りなさい。そうすればいずれ人里に到達できる」という父の教えを思い出していた。

しばらくして小川を見つけることができたユリアナは、それを伝って下流に向かった。

 
ジャングルで初めての夜が始ろうとしていた。暗闇の中あちこちで何かが動き回る音がし、時おり猛獣のうなり声が聴こえる・・・

ユリアナは疲れていたが、何かが襲ってくるのではないかとの恐怖でなかなか寝付くことができずにいた。それとユリアナを悩ませたのは蚊の大群であった。次々と襲ってくる蚊に寝不足も相まって頭がどうにかなりそうであった。

ジャングルでの厳しい洗礼を受けながらも、ユリアナは次の日も、また次の日もひたすら小川をたどって歩き続けた。

 

奇跡の詩

この事件は「奇跡の詩」という映画にもなっている

ジャングルにはクロコダイルや大蛇などの様々な危険な生物も沢山いたが、ジャングルや生き物に詳しい父や母の教えを思い出し、無事なんとかやり過ごすことができた。

今、猛獣よりも気になるのは背中の傷口であった。傷口に肉バエが卵を産み付け、蛆虫が皮膚の中をうごめいていたのだ。取ってもとっても次々と出てくる蛆虫にユリアナは精神的に参ってしまっていた。ジャングルでの遭難が長期にわたるにつれ、ユリアナは様々な幻覚にも悩まされていく。もう体力も限界に近い・・・

 

ジャングルでの生活はすでに9日目に突入していた。

ジャングルからの脱出 父との再開

精神を奮い立たせてひたすら川沿いを進んでいると、ユリアナは無人のカヌーを発見した。

「近くに人がいるに違いない!」そう思ったユリアナが辺りを捜索すると山小屋を見つけることができた。

ふらつきながらも最後の力を振り絞って小屋にたどり着くと小屋には誰もいなかった。ユリアナ落胆し気を失ってしまう。数時間後、林業従事者たちが仕事を終えて小屋に帰ってくると、身体中傷だらけでぼろぼろの格好の少女が小屋の中に居ることに驚いた。

ユリアナは自分のことを墜落した飛行機の乗客の一人だといっても林業従事者たちは容易に信用してくれなかった。無理もないことである。何しろ墜落現場はこの小屋から2百キロも離れていて、事故の報告があってからもう9日も経っていたからである。

林業従事者たちはできる範囲でユリアナの傷の手当をし、背中の蛆も取り除いてくれた。30匹以上もの蛆虫が背中から出てきたそうである。

翌朝、林業従事者たちは丸一日かけユリアナをカヌーで下流に運んでくれ、そこからは空路を使い、父の待つプカルパの病院に運ばれた。 病院で父と再開できたユリアナはしっかりと抱き合った。

 

ユリアナはこの飛行機事故で92名中たった一人の生存者であった。

八仙飯店一家惨殺事件

この事件はマカオ半島の東北部にある八仙飯店で一家10人がバラバラに惨殺され遺棄されるという惨たらしい事件であり、あまりに有名なこの事件を題材にした映画やドラマも多数制作されている。

八仙飯店

当時の八仙飯店

登場人物

黄(50代)

事件の犯人。元の名を陳梓梁といい、広東省の現佛山市南海区書楼村の出身。「黄」姓の女性と結婚し名を変え2男1女を儲ける。

鄭林(50代) 

八仙飯店経営者で、黄とは麻雀、ポーカー等の賭博仲間であるが、この賭け事が原因となり黄から恨みを買うことになる。妻である岑恵儀との間に1男4女を儲けている。

岑恵儀(42歳) 

鄭林の妻

観徳(7歳)   

鄭林夫妻の息子

鄭林夫妻の娘4人

陳麗容(70歳) 

岑恵儀の母親

陳珍(60歳)  

陳麗容の妹

料理人(61歳) 

八仙飯店の料理人で鄭林の従兄 名は鄭柏良

ビーチで発見された謎の手足

1985年8月8日に、コロアネ島のハクサビーチで8体の人間の手足が浮いているのを海水浴客が発見し警察に通報した。警察が調べたところ、発見されたのは右足首が4体、左足首が2体、両手が2対であることが分かった。右足首が4体あることから犠牲者は少なくとも4名いると思われた。

 2日後、同じビーチで野犬が女性の左手首1体をかじっているのが発見され、3日後には警察が女性の右手首1体を、海水浴客が右足首1体を再び発見した。

11体の手足の発見を受け、警察はすぐに捜査班を設置し、中国大陸から法医学者を招いて手足の化学検査、記録作成に協力してもらったものの、捜査は進展しなかった。

捜索願いの手紙

手足発見から8カ月後の1986年4月、マカオの司法警察局と広州の国際刑事警察機構は、八仙飯店の経営者である鄭林の弟から捜索願いの手紙を受け取った。

手紙には、兄一家(10名)が突然失踪したことと八仙飯店を不動産ごと黄という名の男が受け継いだことが書かれてあり、兄一家の行方を捜索して欲しいという内容のものであった。警察に手紙を出した経緯は、マカオのハクサビーチ付近の海面で人の手足の残骸が発見された事を知り、もしかしたら兄一家が誰かに殺されてしまったのではないかと心配してのものであった。

手紙の内容にはまだ裏付けはなかったが、これが警察が黄に対する捜査を始めるきっかけとなった。 

本格的な捜査開始

前年に発見された手足の残骸を警察が新たに調べたところ、ついに1体の女性の手首の指紋が陳珍(岑恵儀の母親の妹)のものと似ていることをつきとめた。これを受けて警察は黄を監視するとともに、失踪者の近隣者約20名に対し聞き込みを行った所、警察は鄭林一家の失踪は1985年8月4日から5日の間で起きており、犯行は黄と別の若い男1名が共謀して一家を殺害したと確信するに到った。

また警察は黄が八仙飯店の失踪事件とは別の凶悪事件にも関係していることをつきとめていた。

1973年11月5日、香港の鰂魚涌の英皇道にやってきた黄は、李和という男性から1万香港ドルを借りた後、李和夫妻と妻の姉を後ろ手に縛った上で斬りつけ、李和を浴槽で溺死させた。その上、液化石油ガスで放火を図ったが、幸いにも李和の姉と妻子は脱出した。この事件当時、黄は陳梓樑と名乗っており、逃亡先の広東省南海区で潜伏中、潜伏先の女性と恋愛関係になり結婚、夫婦でマカオに密航、この時警察の追及から逃れるため、黄は左手人差し指の指紋を焼いて除去している。1986年、八仙飯店の事件発覚後、李和の家族は黄と陳梓樑が同一人物であると認めている。

逮捕・取り調べ

1986年9月28日、黄が中国大陸へ逃亡しようとしていることを察知した警察は、黄を署に連行し、集中的に取り調べを行った。警察は、黄が鄭林一家の失踪後に八仙飯店を引き継ぎ従業員も入れ替え営業を開始していること以外にも、鄭林の個人所有の不動産を他人に貸し出していることや、自分の20代の息子が当時使用していた自動車が鄭林の所有のものであることをつきとめていた。

黄が逮捕されたことにより、巷では黄が八仙飯店で犠牲者の遺体を叉焼包にして店で販売していたのではないかと噂されるようになり、香港とマカオで一時大々的に騒がれるようになった。

自白・犯行の動機

1986年10月6日、拘留中の黄は事件の動機と経緯について自白した。それによると、鄭林が賭けにより黄に負った借金を払わなかったことが殺害の動機であったとした。黄と鄭林夫妻は長年の顔見知りであり、よく麻雀、ポーカー等の賭博を一緒に行っていたという。

事件発生の前年である1984年の晩、八仙飯店で黄、鄭林夫妻、料理人がポーカーで賭けを行った。鄭林の妻の母親である陳麗容もその場におり観戦していた。

黄は鄭林と2,000マカオ・パタカの勝負を行い、黄が18万マカオ・パタカ勝ったという。その際、鄭林は1年以内に清算すると答え、さらに、もし支払いが出来ない場合は八仙飯店を黄が差し押さえることにも口頭で同意した。

それから事件発生までの間、黄は何度も鄭林夫妻に清算を求めたが拒絶され、ビタ一文受け取れなかったという。

事件発生の晩の1985年8月4日、黄は再び閉店後の八仙飯店に行き、鄭林夫妻に賭けの精算を求めたが拒絶され、鄭林に対してまず2〜3万マカオ・パタカを支払えば、残りの返済はゆっくりでよいとも提案したが、鄭林が「何を返せというんだ? 借用証もないではないか。」と答えたことから言い争いになった。

逆上した黄は、テーブル上のビール瓶の底部をたたき割って手に構え、傍らにいた鄭林の息子の観徳をはがいじめにして割れたビール瓶をその頸部に突きつけるとともに、その場にいる者に声を出さないよう命じた。その場には鄭林夫妻一家と料理人がいたが、観徳が人質になったため誰もうかつに動けなかった。黄は全員にロープで互いを縛るように命じるとともに、布で各人の口を覆っていった。

ロープを掛けていないのは鄭林の妻、岑恵儀と息子の観徳だったが、黄が岑恵儀に幼い息子をロープで縛るよう命じた途端、彼女が突然、大声で泣きながら息子を抱き上げて逃げようとしたため、割れたビール瓶を彼女の頭部に振り下ろして殺害した。

それから黄は理性を失い、そのビール瓶で各人を次々と殺害していったという。店内にいた9名の内、最後に犠牲となったのが7歳の観徳であったが、彼は殺害される前に黄に向かって「大叔母さん(鄭林の妻の母親の妹、陳珍)が通報するから警察がお前を捕まえるぞ!」と言ったという。

それを聞いた黄はその後、陳珍の元に向い、子供が熱を出したという嘘で彼女を八仙飯店まで誘い出して殺害した。

黄は、8時間かけて全員の遺体を解体した後、黒い二重のポリ袋に入れ、一袋ずつゴミ箱に遺棄したことを認めた。

黄は、鄭林一家を殺害後は従業員を入れ替え八仙飯店を引き継ぎ営業を開始していた。

自殺

1986年10月4日、刑務所に入れられた黄は、刑務所内の鉄製ゴミ箱を割いた物で左手首の脈を切り自殺を図ったが、他の拘留者に見つかり、5時間に渡る救命措置を受けることで命を取りとめた。だが12月4日の深夜、黄は研磨した炭酸飲料缶の蓋で、以前に自殺を図った際の傷口を再び切り自殺した。

発見された大量の人骨

1989年2月20日午後5時、 タイパ島の清掃員がごみ捨て場で大量の人骨を発見し、マカオの司法警察局は数日間調査した結果、これらの人骨が八仙飯店で行方不明になっている10名の遺体であるとみなしている。